食道ガン体験記

おすまんさん
のどの下の胃ぶくろ
発症、そして告知
1.検診で高血圧を指摘される
1997年の7月のことだった。私は5年ぶりの健康診断を受けるために、オックスフォードからロンドンへ向かう列車に揺られていた。前年の冬以来、どうも体調が良くない。3ヶ月にわたった不規則な交代勤務の疲れがとれないのだった。とはいえ、特別にどこかが悪いというわけではなかった。ただ、念のため、というつもりの検診だった。一時間ほどで終了し、医師の説明を受ける。
「血圧が少し高いようです。下が96に、上が140。」「上はともかく、下が高い。定期的に検査を受けて様子をみたほうがよいでしょう」X線フィルムを壁のシャーカステンに貼ると、医師は「それから、食道のここですが」と指をさした。
「明らかに、何か写っています。おそらく、心臓の影が強く出ているのだと思いますが、念のために他の先生にも見てもらっておきましょう。まあ、心配はいりません」確かに食道の一部に食い込む黒い影が素人の私にもはっきり認められる。なんだろう、心臓の影?そんなものかな? 私には自分の食道の画像はただの荒縄のように見えた。詳しいレポートは後日郵送してくれるということなので、その日はそのまま帰った。

2.検診結果に「食道狭窄像の疑い」
検査結果のレポートが郵送されてきた。封を切って一瞥した。血液、尿検査の欄にはずらっと正常値か並んでいる。ホッとして視線を移すと、X線の欄の「食道狭窄像の疑い」というコメントが目に入った。「精密検査をうけてください」とある。不安が胸の中でぐっと頭をもたげるのを感じた。食道狭窄をおこすような病気は?医学書を手にとって食道疾患の項に目を通した。食道はのどと胃をつなぐパイプ。ごく簡単な構造の臓器だ。先天性の奇形などを除いてはめったにトラブルを起こすことはないらしい。よくある病気といえば、胃液の逆流による食道炎か食道癌だ。レントゲンにあれだけはっきり写るのだ。単なる食道炎であるはずがない。医学書の記述を何度も読み直し、検査の結果と自覚症状を分析する。化学の研究に長く携わって来たからこういう作業には慣れている。数多くの実験事実から合理的な結論を導き出す。特定の実験で反証される仮説をひとつずつ消してゆく。そして、最後に残った仮説がその時点での最も確からしい結論だ。この場合、どう考えてもたどり着く結論はただひとつ、癌だ。体中の筋肉がこわばっているのを感じた。「俺は癌だな」― 暗い確信が広がってゆく。いずれにせよ、早急に精密検査を受けなければならない。医学書には「最近では手術で完治することも多いのです」とある。「とりあえずこれを信じよう」そう思った。

3.告知を受ける
検査結果を受け取った日の一週間後、私は精密検査を受けるために再びロンドンへ向かった。
受付で名前を告げると、今回は一階奥の診察室へ通された。痛み止めの注射のあと、喉に麻酔のスプレーを吹きかけて、口から内視鏡を入れる。いわゆる胃カメラだ。左肩を下にしてベッドに横になった。カメラがのどを通るとき軽く吐き気を覚えたが、その後はすんなりと通った。検査の後、しばらく待合室で待たされた。当然、悪い結果を告げられることは予期している。しかし、「もしかしたら癌ではないかもしれない」という気持ちは消えない。不安と希望が拮抗する。ほどなく、名前を呼ばれて小部屋へ通された。T医師は私の顔をじっと見ると、口を開いた。「99パーセント」といった後、言葉を切ると軽く息を飲み込んで、きっぱりと続けた。「がんです」― 告知の瞬間だった。驚かなかった。なぜか当然のように思えた。机に向かった医師が先ほど撮った写真を見せてくれた。食道壁に赤っぽく盛り上がった異物が見える。
「まず、まちがいないでしょう。単なる、食道炎の可能性も、完全には否定できませんが、組織検査の結果が出れば、はっきりします。」「初期のがんでしょうか?」「大きさは3-4センチ程度で、すでに進行癌の状態です。大体、見つかるときはこんなもんです。早急に手術をする必要があります」不思議と「助かるでしょうか?」という質問は私の口からは出てこなかった。とりあえず、T医師には今後の対処の仕方については「家族とも相談して決めたい」と話した。生検の結果はわかり次第、連絡してもらうことになった。

4.リンパ転移が見つかる
九月も末になったころ、K先生から手術前検査の結果の説明を受けた。先生は相変わらず穏やかな表情で、CTの断層写真のフィルムを一枚、一枚、壁に貼り付けていった。そのうちの何枚かに黄色い付箋のようなものでマークがつけてある。いやな予感がした。説明が始まった。
「これが食道の病巣です」 先生は断層写真の中央を指差した。食道の壁が大きく膨らんで肉厚になり、中央の空洞は点のようだ。これでは、食べ物が通らないはずだ。先生はさらに、マークのついたところを指差すと続けた。
「このリンパ節なんやけど、大きく腫れていて、転移やと思います。それから、ここにももう一つ」 リンパ節転移だと思われる炎症は首と胸の二ヶ所にあった。リンパ節は通常紡錘型で、細長い形をしている。
ガンが転移して、増殖を始めると腫れたように見え、形も丸くなってくる。
「まだ小さなものもあるかもしれませんが、それはあけて見なくては(手術してみなくては)わかりません」 「これが、三ヶ所も、四ヶ所も転移があるということになると、手術しても再発してくることのほうが多くなります」 リンパ節転移のないうちに手術をした場合の食道ガンの五年生存率は80%に達する。(国立がんセンター)しかし、転移のあった場合には大きく低下する。病院にもよるだろうが、食道ガン全体では20−30%くらいのようだ。一概には言えないが、再発した場合のガンの進行は速く、通常余命は半年程度、一年以上生きる人は少ない。以前のCTでは転移は認められなかったから、自分では五分五分以上の勝算はあるつもりでいた。統計から考えれば、助かる確立は30−40%くらいか? いやでも、自分で大雑把な数字をはじき出してしまう。 統計というのはおかしなものだ。生存率30%といっても、自分の体の70%が死んで、30%生き残るわけではない。患者本人にとっては、結果はいつも白か黒だ。助かるだろうと思った人が亡くなり、とてもダメだろうという状態の人が完治することもある。望みは十分にあるのだ 。

5.入院の日が決まる
十月になった。一週間ほど前から朝起きると妙に体がだるい。熱が38度近くまで上がることもある。風邪でもひいたのだろうか。インダシンの座薬を入れると、うそのように熱が下がり楽になった。そうこうしているうちに、のども痛み始めた。耳鼻咽喉科で鼻からカメラを入れて調べてもらったが、特に異常はなかった。どうやらこれはガンそのものの症状らしい。後になって聴いたが、こういうふうに体がガンに対して強い反応を示すのは良いサインだそうだ。ガンに対して体の免疫システムが強く抵抗している証拠だからだ。
成人病センターから「ベッドが空いて入院できるようになった」との連絡を受け取った。

6.11階北病棟へ入院
成人病センターへ入院したのは10月9日の木曜日だった。
11階の北病棟の看護婦詰め所へ行って、病室へ案内してもらった。11階は外科病棟、手術を待つ人、手術を終えて回復中の人が入院している。患者のほとんどはガンだ。病室は4人部屋で、思ったより広かった。
夕方になって主治医のY先生が現れた。手術の予定を説明してくれた。手術は一週間後の10月16日と決まった。

7.人工呼吸器をはずしてくれ
「おはようございます」と、麻酔医のT先生がやってきた。「よろしくお願いします」と私。まず、横向きになって硬膜外麻酔のチューブを脊椎骨の間に入れる作業を済ませた。この方法が普及したおかげで、術後の痛みはずいぶん軽減されたそうだ。作業が終わると、再び仰向けになって麻酔の静脈注射をした。手術は当然全身麻酔で行われるから、これは人工呼吸器をつないだりするための予備的な麻酔なのだろう。ここで意識がスッと遠のいた。
夢も何も見ない、まったくの空白の時間が過ぎた。
強い息苦しさを感じて目覚めた。まわりに人の気配がした。手術は終わったのだ。今いるのは回復室のはず。
口は半開きで、のどに強い違和感がある。ああ、まだ気管にチューブが入っているのだ。人工呼吸器の動く「シュー、シュー」という単調な音が聞こえる。それにあわせて私の胸がかすかに上下する。信じられないくらい浅い呼吸だ。苦しい。窒息の恐怖から、思わず大きく息をしようとあせったが、どうすることも出来ない。自分の意志では呼吸をコントロールできないのだ。「息が出来ない。窒息する!」とひとしきりもがいたが、意識が遠のいてゆく気配もない。どうやらこれでも最低限の呼吸は出来ているらしい。これでは拷問だ。「息が苦しい。息が苦しい」これを念仏のように頭の中で唱えながら、意識のはっきりしないまま横たわっていた。ふと、気がつくと、誰かが私に話しかけている。
「二時ごろになったら、チューブを抜きますからね。そうしたら、自分の力で息をするのがこんなに気持ちええんか、と思いますよ」
長い時間がたったように思った。突然、まわりが騒がしくなったかと思うと、声がした。
「では、チューブを抜きますよ」ああ、これで楽になる。のどの奥に不快な感触を残して、ずるずるとチューブが引き抜かれてゆく。チューブの端がのどを通るとき強い吐き気を覚えたがそれは一瞬のことだった。のどの異物感は消えた。「さあ、思い切り空気を吸おう」そう思って、口を開いて愕然とした。ほんの少しの空気を吸い込んだかと思うと、もうそれ以上、肺はぴくりとも動かないのだ。まるで、胸の上に漬物石でも載せられたようだ。これでは人工呼吸器をつけていたときと何も違わない。このとき初めて、手術による肺へのダメージの大きさを実感した。息は相変わらず恐ろしく浅い。水面でパクパクと口を動かす酸欠の金魚になったような気がした。麻酔が覚めてくるにしたがって、まわりの様子がわかるようになってきた。

8.リンパ節転移が確認できない
手術後二週間目に入ると、少しずつ体からチューブが取れていった。立って歩けるようになったので、病室に簡易トイレを持ってきてもらった。これで、紙おむつともお別れだ。口からものを摂らなくとも多少の便はでるから、これまでは看護婦の手を煩わせて、ベッドの上でゴム製の浮き輪のような便器を使って排便せざるをえなかった。普通のパンツをはいてパジャマに着替えると、魔法が解けてカエルから人の姿に戻った王子様のような気分だ。自分で自分の下の世話ができるということは、些細なことのようで人の尊厳にかかわる重大事だ。
手術後10日ほどたったある日の午後、Y先生が病室へ現れた。手術の際に切除したリンパ節の組織検査の結果を知らせにきてくれたのだ。
「それが、あらへんねん」と、Y先生。
病理から戻ってきた結果によると、合計100以上のサンプル中、異常細胞の数はゼロだったのだ。リンパ節転移は確認できなかった、ということだ。
「あれだけ大きな病巣やったんで、普通は少なくとも2−3ヶ所は転移があるもんやねんけど」 「顕微鏡で検査するためにスライスしたサンプルの中に、たまたまガンの細胞が含まれていなかった、ということはあり得るけど、100以上のサンプルからひとつも出て来ないというのはちょっと考えにくい」
「強い免疫反応があった場合には、リンパ節が大きく腫れて転移したように見えることも稀にはあるんです」
「こういう場合は、予後のいいケースが多いんですよ」
数ヶ所程度のリンパ節転移が見つかることは覚悟していたので、私はこの予想外の結果になんだか気が抜けてしまった。リンパ転移のない状態で、手術した場合の食道ガンの5年生存率は80%程度、という統計が頭に浮かんだ。「バンザイ」と叫びたくなるような、そんな喜びではなかったけれど、冷え切った腹の中にウイスキーを流し込んだときのような、体の芯の方からジワッと温められるような、そんな気持ちがした。

9.食道ブジーのチューブに驚く
退院の日が決まった。1週間後の11月30日、日曜日だ。食事はまだ7分粥だったが、胸の傷に出来たポケットはふさがった。退院に備えて胸と腹のCTを撮った。今後、再発の有無をチェックしてゆくときに比較検討するための写真だ。場合によっては、この時点でもう再発の見つかってしまう人もいる。だから、これは私にとっては術後最初のハードルだったが、CTの画像には何の異常も認められなかった。

10.退院への不安
退院を翌日に控えて、ベッドの周りを片付けた。二か月近くも入院しているといろいろと小物がたまってくる。友人が持ってきてくれたアサヒスーパードライの小瓶の栓を抜かないまま置いてあったのが出て来た。
こっそり、一杯やっても良かったのだが、結局入院優等生の看板を下ろす勇気は出なかった。タオルや洗面具、いただいたカードやお守りなどを紙袋とボストンバッグに詰めていった。読みかけの雑誌は、入院仲間に配ってまわった。夜になって消灯時間が来て、ベッドの周りにカーテンをひいて一人になっても、なかなか寝付けなかった。起き上がって窓の外に目をやると大阪城のライトアップ時間はとうに終わっていて、天守閣は大阪城公園の闇に沈んでいた。大阪ビジネスパークの背の高いビルの群れの上に赤く光るライトを見つめているうちに、私は退院するのが怖いのだと気がついた。
この病棟にいれば、周りの人は皆、私がガンの大手術を終えたばかりだと知っている。ほんの少しのお粥をそろそろと食べていても、ゆっくり、ゆっくり歩いていても、体を動かすたびに咳をしていても、ガリガリに痩せていても、かすれてしわがれた声しか出せなくても、誰も私を特別な目でみることはない。仲間は皆がん患者なのだから、具合の悪いのはお互い様だ。ここではみなが、お互いの苦労を分かち合って暮らしている。しかし、病院の外は違う。健康な人たちが、今の私から見れば目もくらみそうなエネルギーを発散させながら生きている世界だ。声ひとつとっても、こんな状態でやっていけるのか? 私の住むイギリスは日本とは違う。「沈黙は金」などという言葉はない。言葉をつくして自己主張しなければ何も始まらない。黙っていれば、やる気がないか、馬鹿だと思われる。漠然とした社会復帰への不安が私の胸をざわつかせる。
そんな私をベッドの上に取り残すかのように、窓の外のオフィスビルにちらほらと残っていた明かりも、ひとつ消え、二つ消えして、入院最後の夜はふけていった。
翌日、11時ころに母が病院へ迎えに来てくれた。妻は手術後、私の状態が安定するのを見届けて、すでにイギリスへ帰っていた。妻も責任ある仕事を持つ身だ。そうそういつまでも休んではいられない。荷物をまとめると母に待っていてもらって、病棟の仲間に退院の挨拶をしてまわった。
「今日退院することになりました。本当に、お世話になりました」
「もう退院かー、よかったなあ。元気になってや」
私の52日間の入院生活は終わった。