天国のお母ちゃんへ

(遺された息子の手記)
マサトシさん
病気との闘いだった後半生。吐血するその日まで買い物に出、家族のために食事を作った。そんなになるまで顧みず、ガンに侵されていた事も気付かなくてゴメン。

取り返しのつかない事をしてしまった。こんな親不孝者は地獄に落ちても仕方ないね。

もし生まれ変わるなら、次の人生、もっと幸せになってくれ、お母ちゃん。

「形見分け 届けた山に 散る紅葉」

今まで突っ張って生きて来た。英語も話せず、単身ニュージーランドへ行った。地震と暴動直後のロサンゼルスにも一人でのり込んだ。富士山さえ登った事もなく、いきなりマウント・ホイットニーに登った。アラスカで足の病気を患った時も不安はなかった。山で何度も熊と遭遇したが、その都度切り抜けて来た。それら全て自分の力のつもりでいたが、実は目には見えないけれど、お母ちゃんの精神的支えあればこそ、と分かった、やっと。

出かける時は必ずいつも「気をつけて。」と見送ってくれた。いつ家に戻っても、優しい微笑で迎えてくれた。今かけがえのない人を亡くし、やっと普通の「人の痛み」を知りました。

「行く人に 亡き母映る 師走かな」

お墓の修復も出来、納骨も無事済ませる事が出来たけれど、仏壇にご本尊がないのはおかしい。初盆までに用意したい。出来れば自分の手で釈迦如来像を彫ってみたい、そんな思いが湧いている。

部屋を見回すと、お母ちゃんの身の回り品は本当に僅かしかない。最期にはめていた腕時計。壁のフックに掛かったエプロン。40年以上使い込まれた鏡台。その鏡の角に掛けた綿の夏物帽子。鏡台の横には、これも古い裁縫箱。その上に薬箱。机の上に冬物の帽子。そして筆記具、ソロバン、ノート類。その横に、一時退院してから介護保険申請して買った 2つの浴室用補助椅子。その上には病院で着ていたネグリジェ数着、タオル数枚。その他に部屋着の入った収納ボックス 2つ。タンスの中に、お出かけ用の服数着。

かつては 30万円もするレザー・コートなどもあった。お母ちゃんが自分のために自分で貯めた金で買った。そういう時代もあった。が、そういう物は、後年俺が質入れしてしまった。

俺は、鬼だった。

いつか、お母ちゃんが観ていたテレビが喧しくて、勝手に消してしまった事があった。「テレビしか楽しみがないのに!」と泣いて怒ったお母ちゃん。次元の低い話だと思ったが、結局それは、俺自身の次元の低さを転化しただけの事だ。

お母ちゃんは時代劇と刑事もの、推理ものが好きだった。「ER」のような医療ドラマも欠かさず観ていた。正月には箱根駅伝を楽しみにしていた。マラソンも好きだった。他に旅番組、紀行ものなどもよく観た。特にニュージーランドやカナダ、アメリカ西部に取材した番組があると必ず俺に教えてくれ、自分でも興味深そうに観ていた。俺は、その内ハワイかどこか近場の海外に連れて行ってやりたいと思っていたが、結局実現出来ないままになってしまった。

ナースの人たちがお母ちゃんの湯かんをしてくれている間、主治医の話を聞いた。その時初めて数十冊に上るカルテの束を見せられ、愕然とした。それが、お母ちゃんと病気との長い長い「付き合い」の記録だった。

折りに触れ、お母ちゃんは病気の話をした。「今度はこんなになっちゃった。」というように。今思うと、「病気と闘う」というような悲壮感はなかった。だから「お付き合い」と言った方がしっくり来る。が、俺はそういう話に直ぐ嫌になり、逃げ出していた。そういう話は日常茶飯事であったから、関心が薄れていた。が、しかし実はこれこそ最も大切な事だと理解していなかった。日常とは日々、茶飯とは人として生きるために欠かせないものだった。

1年ほど前も、胃カメラの検査を断った話を聞いた。過去に、相当辛い思いをしたのだ。その頃お母ちゃんは足の皮膚に異常を感じており、膠原病を心配していた。しかしそれは、実はガンによる影響と考えられる、と後に主治医が言った。今思えば、その時俺が親身になってお母ちゃんの体の事を考えていれば、胃カメラを勧めていたかもしれない。胃ガンは早期発見出来れば後の生存率は高い。しかし、過ぎ去った時間を元に戻す事は出来ないのだ。

仕事帰りにスーパーに寄って、お母ちゃんに声を掛けられた事があった。その時は何だか気恥ずかしくて、さっさと店を出てしまった。家で、お母ちゃんは怒るでもなく、言った。「米の袋が重いから、持って行ってもらいたかったけど、無視されちゃった。」と。俺は心の中で「すまない」と思ったが、言葉にはしなかった。

お母ちゃんは元々糖尿病もあり、定年を過ぎた頃から手足の動きが鈍くなっていた。道で転んで膝を擦りむく事は度々だった。晩年は妹のハイキング用ステッキを使った。それでも一人でバスに乗って通院し、買い物にも行った。お母ちゃんの歩きを見ていると、ハラハラするほど危なっかしく写った。しかし、歩ける間は歩いてほしかった。寝た切りになられるのが俺は怖かった。

吐血する日の 10日ほど前から、お母ちゃんは食欲を失くしていた。そういう事は以前から度々あったので、例によって俺はあまり心配しなかった。「もう 3日、何にも食べてない。」ポツリとお母ちゃんが言った時も、非情にも俺は、その重大な SOS のメッセージを聞き流してしまった。その時の俺は、ハワイでのトレッキングの準備で頭が一杯だった。

後にお母ちゃんは説明した。以前から自覚のあった胃の痛みが強まって来ており、自身でも異常に気付いていたが、緊急で受診するのは俺が旅立ってからにしようと我慢していたという。そして結局、俺の出発前夜に吐血した。

親父と妹が一緒に病院へ行き、俺は家に残った。胃潰瘍程度のものなら予定通りハワイへ向かうつもりだった。夜中に家族が戻ったが、夜間という事で胃カメラだけ飲んで、MRIなど精密検査は翌日に持ち越しとなる。実はこの時、お母ちゃん本人も付き添っていた家族も胃カメラの写真を見たのだが、医師からは胃潰瘍とだけ告げられていた。

眠れないまま朝が来た。精密検査の結果を聞かずに行けるのか?迷いに迷った。結局俺は飛行機搭乗キャンセルの電話をした。そのまま出発していたら、もうお母ちゃんには会えなくなっていたかもしれない。

愚かにも俺は、今まで一番大切にすべき人を蔑ろにして来た。重大な過失を積み重ね、最悪の結果を生んでしまった。自分が責め苦を負うだけで済まない。親類縁者、知人、大勢の人をも悲しませてしまった。

お母ちゃんの晩年は、清貧そのものだった。25年もの間様々な病気に苦しみながらも仕事を定年まで勤め上げ、なおかつ家事を疎かにする事はなく、それでいて淡々と、陰になり日向になり家族を支えて来た。もし生まれ変わるなら、後生は天界に、と願うばかりだ。

8月末の再入院。見舞いに行くと、ベッドに寝ているお母ちゃんの口の中がよく見えた。虫歯だらけだった。「痛くないの?」と聞いたら、「痺れたような感じ。」と言った。いつかお母ちゃんが話していたのを思い出した。これまでのあまりの病歴の多さに、歯医者も副作用を心配して、なかなか治してくれる人がいないのだった。治療を受けられない歯の痛みに、お母ちゃんはずっと耐えながら暮らして来た。そういう事も俺は分からずにいたのだ。

お母ちゃんは、「起きる。」と言ってベッドに腰掛けた。熱いタオルで頭を拭いてやろうとすると、「そうっとやって。」と言った。髪の毛が抜けてしまうのを心配していた。「人間は毎日髪の毛が抜け換わるもんだよ。」と俺は慰めた。タオルにびっしり毛が付いた。櫛で髪をとかすと、また髪の毛がいっぱい絡み付いてきた。

両腕の点滴部位が硬くなり、首の静脈に管が挿入された。「手が楽に動かせる。」とお母ちゃんは喜んだ。

初めのうち、お母ちゃんは自分の足で歩いてトイレに行っていたが、日毎にふらつきがひどくなった。食事が採れなくなり、完全に点滴だけに頼るようになって、もう気力だけで歩いていた。

個室に移ってからポータブル・トイレを用意してもらったが、これにもかなりの抵抗感を示した。これまで何でも一人でやってきた人だから、屈辱だったのだろう。「困っちゃったねえ...。」という言葉を繰り返した。しかし実際にはポータブルを使う日々は長く続かず、やがてオムツが必要になった。それまでの痛み止めは効かなくなり、モルヒネが使われ始めたせいもあるだろうが、介助してもベッドから降り立つ事が困難になったからだ。嫌がるお母ちゃんを何とか説得して、オムツを使ってもらった。

ある時、お母ちゃんが眠ったままになった。手の震えがひどい。呼んでも目を開けない。このまま死んでしまうのでは?と思った。直ぐナースを呼んだ。モルヒネを止めて、しばらくするとお母ちゃんは目を覚ました。俺は病室にいると、ある種の緊張感か、いつも平静でいられたが、この時ばかりは涙が出て仕方なかった。意識を取り戻したお母ちゃんが俺を見て、微笑んだ。

「治るだかねえ...?」とお母ちゃんに聞かれた時、「そのつもりで色々やってるんだ。」と俺はその場しのぎの答をした。「もうダメだかねえ?」と聞かれた時は、「そんな事あるもんか。」と答えた。この時俺自身の心は「お母ちゃんの死」というものに抵抗していた。だが本当は、既に死が免れない事をはっきり告げるべきだった。その上で、お母ちゃんが素直に運命を受け入れ、安心して旅立てるように家族は心の支えとなる、そういう事を明確に意識すべきだった。しかし、これは実際にお母ちゃんを看取った体験を経て、後に辿り着いた考えではある。

手足の筋肉が落ち、完全に寝たきりとなったお母ちゃんの口中をクリーニングした。スポンジ・ブラシを右奥の歯に当てようとすると、その部分の歯はほとんど残っていなかった。これも初めて知った事だった。「ないだよ。」とお母ちゃんが小さく微笑んだ。

目には朝昼晩と違う薬を差さなければいけなかった。緑内障の進行を抑える薬だ。その他にも糖尿病対策の薬とか色々あったが、末期医療最優先で、全て中止されていた。満身創痍の人だった。

「もう家に帰りたい。」とお母ちゃんが言った。不可能な事ではない筈が、結局その願いも叶えて上げる事が出来なかった。

最後の 1ヶ月間はモルヒネのせいだろう、お母ちゃんの口にする訴えが正しい言葉にならず、理解出来ないで困った。考えて水を上げたり、足を摩ったり、ベッドを上げたりするが、お母ちゃんは当惑の表情を浮かべたりして、俺は正確に要求に応えられない事が辛かった。

あっという間の半年間だった。末期ガンの母親に付き添い、最期を看取る。日々やつれ、衰えていく母親を前に、なす術もない。次第にペイン・コントロールが難しくなり、これでもか、これでもかというように毎日苦しむ母親の姿を見せつけられる。それ即ち俺自身のこれまでの行状の結果の反映に他ならない。お母ちゃんは、「もう殺して。」とまで言った。人生において、これに勝る苦行があるだろうか。自分が殺される方がどれほど楽か。

少なくとも俺は、自分自身の死と正対する準備は既に出来ているつもりだが、お母ちゃんの場合はどうだろう?阿修羅のような息子を持って、さぞかし無念であったかもしれない。それとも、お母ちゃんは納得して死んでくれただろうか?昏睡状態の人に最後の呼び掛けは届いただろうか?安心して死んでくれたのだろうか?事実として確認出来たのは、お母ちゃんは息を引き取ると安らかな寝顔になったという事だ。葬儀の時も、参列してくれた人の多くがそう言った。今は、それを全ての答だと思うようにしている。

いずれ俺も死ぬ。もし死後世界があり、お母ちゃんと会う機会があれば、深く深くお詫びするつもりだ。

お母ちゃんが亡くなって、二月になる。俺は、これまで個人的には宗教は否定して来たし、お葬式すらやるまいと思った事もあった。が、今度の経験を縁に、個人的に仏教の勉強を始めた。すると数年前、思うままに自己の思索を書き留めた文章の内容が仏教教義の中にも出て来るのを知って、驚いた。特に「悟りとは、言葉には出来ない体験だ」という表現を見た時は、ほんの少し救われる思いがした。

「サケが川を昇り、果てる。その先に森がある。ナースログ(倒木更新)がある。季節が移り、また新しいサケが海へ下る。」

「生あるものは死ぬ。それがまた次の生を育む。死あればこそ、生がある。死は次の変化と再生へのステップであり、生と死は絶対不可分のものだ。」

「親しい者の死は耐え難く、辛い。それは時に理不尽ですらあり、喪失感は容易に埋められるものではない。去り逝く者と、遺される者、悲しくも両者の間には絶対の孤独しかない。しかし、この大宇宙でさえも変り行くと理解すれば、心の安らぎを見つける手立てになる。形有る物はいつか壊れる。しかし心、記憶と体験は壊れないとする。そしてそこから、人はどのように生きて行けばいいのか、答は各々の心の中にある。」

過去の自分の文章にも励まされるとは、何とも不思議な経験だった。親は先立つもの、という潜在意識が準備させたものだったかもしれない。親不孝の贖罪の責任は消えないが、どうしようもない喪失感から立ち直るチャンスにはなると思った。

お母ちゃんは俺にとって菩薩のような人だった。

人生の方向性を自覚した。目標だ。しっかりと死を見据えて生きる。その中で「悟り」を得るために努力する。出家の意味じゃない。まして聖人になろうとか、世界を救済したい、などという血迷い事でもない。何かの教祖を目指すつもりもない。地位とか、名誉欲でもない。極楽に行きたいのでもない(行ける筈がない)。ただ一個の人として釈尊の生き方に学び、自分なりの方法で精進する、そんな決意だ。完全な悟りを得る事は不可能だろう。それは「分け入っても分け入っても青い山」なのだから。地平線のように、一歩近付けば一歩遠のくようなものかもしれない。が、これからは内面的に新しい自分の生き方を模索して行こうと思う。

いつか、三蔵法師の軌跡をトレースするような旅もしてみたい。そして、釈尊の生誕地、生活の場、入滅の地を訪ねてみたい。その土地土地には、今も何か「気」のようなものが残っている筈である。それが何かは分からないが、少しでも頂けたら、と思う。

1週間前、変な体勢で自転車を持ち上げたところ、腰に激痛が走った。初め大した事はないと思っていたが、次第に痛みが増して来る。ついに腰から火花が散るような痛み方になり、眠る事も出来なくなった。俺はこれまで虫歯以外あまり病院に縁がなかったので、こういう状況に不慣れだった。このまま一生歩けなくなるのではないか、という不安に苛まれた。「歩きのプロ」が歩けなくなる。恐ろしい事だ。「お母ちゃん、助けてくれ。」と念じた。

翌日、車に乗せてもらって病院へ行った。坐骨神経痛と診断された。骨に異常はなかったが、それからの 2日間はまた更に辛かった。寝るのもやっと、歩くのもやっと、まるでお母ちゃんの霊が乗り移ったみたいに思ったものだ。

今頃天国のお母ちゃんが笑ってるかもしれない。

その身以て 仏の心 示したる 母の墓前に 初春清し(すがし)