「肺癌の妻と共に」

加藤 幸一さん
天気草
平成十ニ年、妻が節目検診で肺癌の疑い。
精密検査で腺がんと診断され、手術。
その後抗癌剤の治療をへて退院。
一年後両肺に転移が判明。ただいま抗癌剤の治療中。


1. 節目検診で、精密検査と言われた妻
 平成十ニ年の夏、節目検診の結果を聞いてきた妻が、暗い顔をして、自分だけ別室に呼ばれて、肺の精密検査を受けるように言われたと告げた。肺の検査結果のところには、「肺癌」と印されていた。まったくの無防備のまま、その話を聞き、血の気がさっと引いたのを覚えている。
 妻は常日頃、健康だけが取り柄だと自分から宣言しているぐらい、あまり病気もしないたちで、むしろ夫であるぼくの方が弱くて、なにかと弱音ばかり吐いていた。親父が三年程前に胃癌で亡くなっているので、自分も癌で死ぬだろう、だから後はよろしくと、冗談のように言っていた。
 すぐに精密検査の予約を取り、付き添い東京都の癌検診センターに行った。昼休みのお茶の水の街は、若い人が溢れるばかりの賑わいで、健康な笑顔を作って、楽しそうに歩いていた。その中を、蒼ざめた顔をした二人がとぼとぼと歩いる。まるで自分たちだけが、違う世界の住人になったような心細さだった。
 翌週の検査で先生は言った。「細胞を取らないと、断定は出来ませんが、ほぼ間違い無く、癌ではないかと思います。直径2センチ。初期の癌です」
 先生の言った言葉を一人では到底支えられませんでしたので、帰り道で妻に打ち明けました。妻は声もなく、うなだれて歩いていました。でも、先生の言葉で唯一救いだったのが、「初期の癌」だと言うことでした。先生が初期というのなら、切ってしまえばきっと治るとのだと思って、さっさと妻に告知したのでした。妻は自分が入院することで、医療費がどんなに嵩むのかを心配していた。帰りは、お金の工面のことばかりを話すようになってしまった。(でも、その心配は完全に杞憂に終わる。なぜならぼくは癌保険に入っていて、特約で妻の癌もカバーしていることが分かり助かった)
 翌週も妻に付いて行き、気管支鏡の結果では、正確には癌かどうかは分からず、病院で針生検を受けるように言われた。ここまででおよそ一ヶ月。検査の結果が分からずに、ただ待っている日々は、気の遠くなるような長さで、なぜもっと早く分からないのか、不思議でしょうがなかった。待っている身になってみろと毒付いてばかりいたことを覚えています。

2. 入院、告知
 入院の手続きを済ませた後、妻の病状を聞いた。妻の担当の医者は若い先生だった。「初期なのでしょう」と聞くと、険しい顔で、まだ詳しくは分からないが、「初期ではない。手術できるかどうか調べている。結果は月曜日に分かるから、電話を待っていてくれ」との事だった。その言葉に驚き、ぼくは目を丸くして先生を見つめていたようだった。その若い医者はいきなり、「ここの病院の検査結果や治療方が気に食わないなら、紹介状を書くから、すぐに言ってくれ」と険しい顔で言うのだ。ぼくはどうしていいのやらわからず、ただ息を飲んで、佇んでいたようだ。ショックだった。初期ではないという事にも。この医者の態度にも。
 病院から、検査結果が出たからきて下さいとの電話があり、まっ先に「手術は出来るのですか」と聞いた。「かろうじて」と医者は言った。かろうじて、かろうじて、かろうじてってなんだ。病院に着くまで、その言葉が耳にこびりついて離れなかった。
病気の進行度は3A。ごく初期が1Aだろうから、3Aはそうとうに進んでいるのか。かなりショックな告知だったが、それに畳み掛けて、手術は出来るが、半年後に転移していることもあると言った。その場合、手術は出来ず、放射線も抗癌剤も効かないと言った。おいおいどういう事だ。こんなことをいきなり、まだ手術も終わってない患者の家族に言うのか。5年生存率は20%という。聞きたく無かった。あんまりじゃないか。民間療法はどうですかと、聞いてみた。あんなのは統計もないから、さっぱり分からないと言った。つまりはこの医者は、なにをやっても無駄だと言っているのだろうか。ぼくは頭にきた。質問の声が怒鳴り声になった。医者は、はっきりと言っておかないと、後で大変だからだと言った。殴られたこともあると言った。殴ってやろうかとぼくも思った。ひどい告知のされかただ。

3. 手術、抗癌剤治療
およそ4時間の予定だったはずの手術時間が、一時間以上伸びた。告知した医者が出て来て、上葉と中葉がくっ付いていたので、両方取ったので時間が伸びたと言って、取った肺を見せた。レバーのような赤い肉の固まりのなかに、真っ黒な腫瘍が手足を伸ばしたようにこびりついていた。キャンサー(癌)とは蟹のことだと、書いてあった。長い足を持った真っ黒な蟹。
 手術から2週間が経つと、抗癌剤など効かないと言った医師から抗癌剤の治療をしたいと告げられた。生存率があがるぞとの脅し文句で、了承した。なにも分からない家族にとっては、医者の言葉は絶対だった。妻を人質に取られて、いったいどう抵抗できよう。治るものなら治って欲しい。ぼくに選択の余地などないのだった。ここでも、治療にあたって、とても強い薬を使うから、死ぬかも知れぬと医者は脅かした。
おいおい、どこまで責任逃れの言葉を吐いたら気が済むんだい、先生よ。
 妻の検査、入院、手術、抗癌剤治療のあいだ、病院に顔を出すと、帰りには必ず、本屋に寄って本を買った。これを書くにあったって、その時ぼくがどんな本を読んでいたかを思い出すために、書棚を探った。
 人間臨終図巻(山田風太郎)。知識人99人の死に方(監修、荒俣宏)。ガン50人の勇気(柳田邦男)。追悼私記(吉本隆明)。などその他、多数。
自分があの頃いかにおかしな精神状態だったかが分かりますね。頭の中が死の観念で一杯で、生きのびるなんてことは考えもしなかったようで、最低な野郎だったなあと今では、反省しています。
 妻が家に帰ってきて、気持ちが安定してから、ようやく生き延びるにはどうしたらいいかを、思うようになったのでした。その点患者である妻は、どうしたら生きていけるのかしか、考えなかったと思います。死を弄ぶ余裕など、患者には無いんですよね。見守っている事しか出来ない男は、常に恐怖で震えていました。一種のノイローゼだったかも知れません。

4. 退院してからのこと
 年末に妻が退院し、クリスマスは家で迎え、お正月も家で迎えることが出来た。妻がただ家にいるという、この一見平凡な毎日を送ることがことが、どんなにか有り難く、どれほど奇跡的なことかを思いましたね。
 たまたま、年末に妻の妹から、iMacというパソコンを貰いました。それまでパソコンに関しては、まったくの無知無関心だったのですが、「癌患者の会」を見付けて即座に入会しました。とにかく、癌に関しての情報が欲しかった。生身の癌患者の本音を知りたかったのです。癌になった妻を孤立させたくなかった。同じ病気を抱えて生きている人と仲間になりたかった。癌という病気を抱えて、その事を隠して、生きて行くなんて拷問みたいだと思った。無知な人の変な同情も、耐えられなかった。癌を抱えて、これからどう生きて行くのかの、手本になる人たちと接触するのは、内気な妻にはいいことだと考えたのだ。 
 患者の会の会合に出席して、正直ぼくも救われた。それまで、転移したらもうだめだろうなと考えていたが、それがおおいなる誤解だったと分かったからだ。そこには何度も転移して、普通に生きている人がいた。五年生存率10%以下と宣言されながら、十年生きている人もいた。何度も手術しながら、元気な笑顔で生きている人がいた。事務を引き受けている人が、たまたま近く住んでいて、おじゃまして話を聞く機会も得た。一年後転移したことが分かり、入院する前の晩、どうにもいたたまれなくなって電話すると、「いらっしゃい」と暖かく迎えてくれて、話をした。すると不思議なことに、帰るころには、不安は薄まり、安らかな気持ちになったことを覚えている。話すことで、人は癒されるんですね。話が出来る人と巡り会うことは、とても重要なことだと、確信します。
 近藤誠氏の本「がんは切ればなおるのか」の中には、癌より怖い治療死の問題が書かれている。病院の手術、抗癌剤治療が終わると、病院側としては、患者になにもする事がなくなる。主治医に退院後の生活を聞いても、普通の生活に戻ればいいとしか、答が返ってこない。ところが、癌の本を読んだり、癌患者の体験談を聞けば、その後の生活が大切なのだと言っているのです。そういう退院後の生活態度にまったく無頓着な、今の病院にたいして不満を持っています。病院は病気を治すだけではなく、病気にならないような指導もしなければ、いけないのではないかと考えています。
5. 転移して
 癌の手術をしてから一年後に、恐れていた転移が判明した。両肺にたくさんちらばった癌を取ることは不可能で、癌細胞を小さくして、ほかに転移するのを押さえていくだけの治療しかない、しかも腺癌には抗癌剤はほとんど効かないと教えられていた。
偶然、開店セールで安く手に入れたホームページ制作ソフトで、妻を応援するホームページを作った。ネット上には、癌患者で頑張っておられる人のホームページがたくさんあった。その人達と手を握って生き、それがなにより妻の励みになるだろうし、癌の情報も得られると考えた。 
 妻の最初の入院中に作り、退院してくると、毎日の日記をつけることをお願いした。治療で疲れていた妻は嫌がったが、続けていくうちに、癌患者との交流がはじまり、励まされていることを段々実感していった。ここでもまた、ぼくは治療中の妻の孤立が恐ろしかった。どこにいかれなくとも、自宅で仲間と交流があれば、精神は安定し、辛い治療も分かってくれる人がいれば、どんなにか慰められるでしょう。
 年が明け、妻はまた抗癌剤の治療にいきます。先生は、若い男の先生から女医さんに変わり、話がしやすくなったと喜んだ。 どんなに治療が発達しようと、基本的には信頼関係だけが、治療にとってもっとも大切な基本だと、ぼくは断定しますね。
 これからまだまだ、辛い治療は続くだろうと思います。でも、希望さえあれば、きっとへこたれずに頑張れるだろうと思っている。妻には、ねばり強い性格で、このまま何十年でも生きて貰いたい。ぼくがくたばった後も、生きて貰いたい。ぼくがどんなに優しい夫であるかを、後世に語りついで貰いたいためにも、生きていて欲しいと希望します。
 ぼくのホームページの名前は「天気草」。妻が子供の頃好きだった花の名前です。