「告知...家族の決断」

Hiroさん
[DISTANCE]
2001年7月4日(水) 衝撃

 「あと3ヶ月の命」
 ドラマの主人公になった気分だった。
今まで、大きな病気一つした事のない母が、まさかこんなことになるとは。先月まではピンピンしていたのに。
ガンなんて病気、知ってはいたけど、まさか母が、まさか我が家に襲いかかる病気になるなんて、今までちっとも思いもしなかった。
 「あと3ヶ月の命」
ドラマでは何度も耳にした言葉だが、実際、現実の世界で聞くことになるとは・・・。

2001年8月31日(金) 妹へ。

〜8月28日、妹からのメール〜
『お母ちゃんがイライラしてて、私もイライラしててこのままだと家庭崩壊だ。お母ちゃんはずっと熱が下がらなくて、具合悪いってイライラしてる。仕方ないのはわかってるけど、ごはん作ったってあんまり食べないし、うまいともまずいとも言わないから作るのも嫌になるよ。毎日毎日ごはん作って洗濯して、なーんの楽しみもない。出かけるにしたってあまり良い顔しないし、ごはんは誰が作るんだって思ったらあまり頻繁にも家空けれないし。気狂いそうだ。もうイヤだーーー』

〜8月28日 僕から妹へのメール〜
『お兄ちゃんの立場より、あんたの立場のほうが何十倍も何百倍もつらいのは、よくわかるよ。でも、あえて言わせてもらうね。前にも言ったけど。

「そばにいてあげたくても、それができない人がいることを分かってほしい。」

 あんたが代わりに札幌で仕事やるかい?お兄ちゃんは代わりに函館でご飯作って、洗濯して、掃除して、いつでもお母ちゃんに笑顔を見せるよ。どんなに辛くても、笑顔を見せつづけるよ。家族の辛さなんて、本人の辛さに比べると、これっぽっちのものなんだ。いつ自分の体がガンの猛威に襲われるかという不安から来る辛さ。「家族に、自分の辛さなんてわかるもんか」っていう不満もあるかもしれない。自分が患者だったら、どうだろう?って考えてごらん。極端な話、もう明日にも死んじゃうかもしれないんだよ。どうだい?

あなたが、仕事を辞めて、函館に戻ろうって決めたときの気持ちを思い出してごらん。一生の運命が変わるかもしれない決断をしてまで、あなたは仕事を辞めることを決意したんだよね?それは何のため?こんなところでくじけるような、簡単な決意だったの?

 がんばってごらん。
何年か後から振り返って、これが間違った行動じゃなかったって思えるように。まだ愚痴りたいことがあれば、電話でも何でもしておいで。お兄ちゃんにはこれくらしのことしかできないから。本当は、もっと、いろいろしてあげたいんだ。でも、できない。ごめんね。』

〜8月29日 妹からのメール〜
『そんなの全部わかってる。自分なんかよりお母ちゃんの方が何倍も何十倍も辛いってわかってる。わかってるからこそ葛藤が生じてつらいんじゃん。自分はなんて心狭いんだろうって、性格悪いんだろうってどんどん自分のこと嫌いになってくんだよ。

お母ちゃんには優しくしてるよ。感情抑えて笑顔見せてるよ。それができないほど子供じゃない。逆に感情出せるんだったら、イライラなんかしてないよ。

仕事やめようって思ったときの気持ちを忘れたわけじゃない。帰らなかったら絶対後悔するって思ったのは事実。でも、自分の社会的所在がない、どこにも属してない、そんな状況お兄ちゃんにわかる?どんなに不安かわかる?

お母ちゃんがイライラしてる原因は気持ちに体がついていかないことと、お父ちゃんが無神経すぎること。無神経だけならまだしも、逆なでする事の方が多い。どうしようもない、、、。』

妹へ。

あんたはお兄ちゃんの自慢の妹だよ。ありがとう。
あんたとは、よくケンカしたねー。シャレになんないくらい仲が悪かった。
でも、ケンカするほど仲がよい、ってね。
え?それは違う?まあまあ、ここはHP上だし、そういうことにしとこうぜ!
たまには、兄ちゃんの顔も立ててくれよぉ。m(_ _ ;;)m 頼むぜ妹!

いよいよ、第2ラウンド開始だね!打たれ弱い兄ちゃんとタッグを組むのは、さぞかし心細いだろうけど、これからもよろしくな!
さぁ〜て、もういっちょう、がんばってやろうぜぃっっ!!

                                兄ちゃんより。

2001年9月19日(水) 知る権利・知りたくない権利

ちょっと前の話になるが、9/8〜9/10の3日間、函館へ帰ったときのこと。主治医に会って、話を聞いた。
メモを取るためのノートを購入し、インターネットや、メールで得た情報をプリントアウトし、質問事項をリストアップして、話し合いに挑んだ。かなり張り切っていたんだけど・・・。終わってみれば、ほとんど何も得ることができなかった。ガッカリさせられただけ。

@現在の症状は、肝臓の機能が通常の1/10ほどまで低下しており、腹膜炎も併発しているため、腹水・胸水が溜まっていて、腫瘍熱が続いている。
A現在の治療は、アルブミンの栄養点滴に加えて、利尿剤、5Fuという抗ガン剤を飲んでいるが、抗ガン剤については、効果は認められない。
B今後は、黄疸症状、腫瘍の破裂、意識障害、静脈瘤の破裂、疼痛などの可能性がある。

 主治医は「これからは月単位ではなく、週単位で物事を考えてください。」と言った。

 「手の尽くしようはありません。」、「これ以外の治療法はありません」を繰り返すだけの主治医。そんな主治医に対し、やりきれない憤りを感じたが、これが、現実なのだろう。ハイテンションで挑んだ話し合いだったのに、あっという間に意気消沈。さすがに涙が出た。

 当然、僕自身は諦めたくないという気持ちが強い。動注法や、肝動脈塞栓などに、残された可能性を賭けてみたいという気持ちがある。しかし、いろいろ調べていくうちに、それらの方法は、現在の母の状態ではリスクが大きすぎるということがわかってきた。母の意志を無視して、それらを選択することはできない。それをやってしまうと、それは家族のエゴにしかすぎないから。

 我が家の最大の問題点は、母自身に全てを告知していないこと。母が全てを知っているのなら、これからどうしていきたいのかという意思確認をすることができる。しかし、現状では意思確認をすることができない。現状を知ったとき、母はどう考えるのだろう?リスクを抱えてでも、あらゆる可能性にかけたいのか?それとも、穏やかに苦しまない時間を大切に過ごしたいのか?

 父は、「人間には知る権利もあるけど、同時に知りたくない権利もある。」と言う。
「初期段階の告知ならば、告知する意味も大きいが、現在の状況では、『状況の告知=死の宣告』の意味合いになってしまいそうで、あまりに酷なだけであり、告知のメリットが少ないのでは」というのが、父の考え。
母は現状を知りたいんだろうか?特に何も聞いてこないので、今は何も知りたくないのだろう、というのが家族全員の見解だ。しかし、こればかりは母自身じゃないとわからない・・・。

 今さら遅いことだが、母が健康なうちに、「もし癌になったら告知してほしいか」という意思確認をしておけばよかったと思っている。今さら遅いが・・・。

 こうやって悩んでいるうちにも、母の病状は着実に進行しているはずだ。健康食品の日水清心丸だけに、全ての可能性を賭けられるほど、日水清心丸を信じきれてもいない。明確な方向性を打ち立てることができないまま、時間だけが過ぎている・・・。

 僕は、自分が癌になった時は、全てを告知をしてもらいたいと考えている。自分自身でその後の治療方針等を決めたいから。今のうちに、家族に頼んでおかなくちゃ(笑)。

2001年11月19日(月) ありがとう

 函館に転勤してきて、ちょうど一週間たった日の夜でした。平成13年11月19日午後11時18分。母はやっと楽になりました。50歳でした。

 その日、偶然にも、病院のすぐ近くで仕事をしていた僕に、父からの連絡。「早く来い。」いよいよ、その時が来たんだ、と思った。僕は今まで人の最期に立ち会ったことがない。見たくもなかった。怖いから。でも、母の最期を見届けなければ、一生後悔すると思った。

 今、思うと、どこをどう通って、病院にたどり着いたかは覚えていない。病院に着くと、駐車場には、駐車待ちの車が2台くらい止まっていた。駐車場を管理しているおじさんに「順番待ちだから、後ろに並んで」と言われた。「危篤なんですけど」と言ったけれど、おじさんは「危篤と言われても、順番だからねぇ〜」と。
おじさんを跳ね飛ばしそうな勢いで車を急発進させ、その先の路上に車を止めて全力で走った。おじさんが驚いた顔で見ていたのを覚えている。病院に駆け込み、階段を二段飛ばしで駆け上がった。病室は6階なんだけど、4階でバテた。それでも、手すりにつかまりながら必死で病室にたどり着いた。

母を囲み、泣いている家族。

え?間に合わなかった???

一瞬、焦りと悲壮感が頭をかすめた。
でも、母はまだ頑張ってくれていた。眠ったままだったけど。
「本当は苦しむのが可愛そうだから、酸素も付けないつもりだったんだけど、お兄ちゃんが間に合うまでって、看護婦さんが付けてくれたんだよ」
母の酸素をもらいたいくらい、息が苦しかった。呼吸が整うまで10分以上かかったかもしれない。

母を囲みながら、ちょうど一週間前の祖母の不思議な体験話を聞いた。

夜に祖母が寝ていて、ふと目を覚ますと、病院のパジャマを着て、腹水でおなかを大きくした母が、祖母の目の前に立っていて、そのまま仏壇の中にス〜ッと消えていったんだって。祖母が時計を見ると、時間は午後10時44分・・・。

確かその話を聞いたのは、午後10時頃だっただろうか。僕は一刻も早く、その10時44分が過ぎ去るのを願った。

父が母の前で、叔父(母の弟)に電話を始めた。
「多分、今夜だと思います。残念ですけど。通夜は21日で、告別式は22日くらいになると思いますが、ハッキリしたらまた連絡します・・・・・」
そして、父は祖母に、この後の相談を始めた。
「御骨は49日までは家においておいて・・・・・」

・・・・・。

自分の頭の中で何かのバランスが崩れた。そして感情を抑えることなく怒鳴った。相当大きな声だったらしい。ナースステーションにいた看護婦さんが驚いて病室までやってきたくらいだから。

「お母ちゃんの前で、そんな話しないでや〜!!まだ頑張って生きているのに、通夜だの葬式だの、何でそんな話をしなきゃいけないのさ!?」
「だって、意識ないもん。聞こえないべや。それに、そういう話は今からしておかないと」
「そういう問題じゃないっしょ!!今話したって、後で話したって、どんだけ違うのさ!?いいからやめてぇ〜!!!」
「あんたも、もっと大人になったらわかるよ。」祖母が諭すように話したが、わかりたくもなかった。
妹が「そんな大人にはなりたくないよ」ってつぶやいた。

僕はずっと思っていた。意識がない状態のとき、悲しい言葉は意味が理解できなくても、その言葉は悲しい色としてその人に伝わって、その人の心に冷たいものとして残るんだ、って。
モルヒネや肝機能の低下による譫妄(せんもう)状態で、言葉も通じず、ただひたすら暴れていた時も、僕が母の前で涙を流しながら、「なんでだよー」って言った時、母は不思議そうな顔で「どうしたんですか?」って聞き返してくれたんだから。言葉の意味も、涙の意味も理解していなかっただろうけど、悲しい気持ちだけは伝わったんだ。

病院に駆けつけてから、母が息を引き取るまで、約4時間、そばにいることができた。その4時間、ずっと言いたくても言えない言葉を何度も何度も、喉まで出かかって、また飲み込んで・・・。周りに家族もいたから、恥ずかしくてなかなか言えなかったんだけど、最後にやっと言えました。

「お母ちゃん、今まで育ててくれてありがとうね。」

なんてことない、当たり前の言葉なんだけど、今まで恥ずかしくて、ずっとずっと言えなかった言葉。できれば、母が意識のある元気なうちに言いたかったなぁ。
「ありがとうね。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。」泣きながら何度も何度も繰り返した。

そして母は息を引き取った。
え?人の死ってこんなもんなの???って思うくらい、静かで穏やかな死でした。

2001年12月9日(日) 「あのとき」

「あのとき、ああしていたらどうなっていたんだろう。」
今、振り返ると、そういう選択肢の数々が、この5ヶ月間には何度かあった。
その中でも一番印象に残っている、「あのとき」のこと・・・・・。

10月上旬のこと、なかなか継続的に健康食品を飲もうとしない母に僕は、しびれを切らし、焦りが生じた。7月の手術で体の中から癌がなくなったと信じている母に一部でも告知をし、現状を知ってもらうことが必要だと考えた。そして、健康食品に残されたわずかの可能性を賭けて、頑張ってもらうしかないと考えた。とにかく諦めたくなかった。
でも、妹の考えは違った。母の精神状態がとても落ち着いているから、今、余計なことは言いたくないと。
1時間以上、電話で話し合った。抗癌剤も使っていない今、癌に対する治療は一切やっていないわけで、このままだと母の死は確実に近づいていることを何度も説得した。でも、妹は最後まで受け入れてくれなかった。告知した後の母と接する自信も覚悟もできていない、と。

「もしこのままお母ちゃんが死んでしまったら、お兄ちゃんは今回、告知しなかったことを一生後悔するよ」と僕が言うと、妹は「そして、告知に反対した私を一生恨むよね?」って言った。「そして、私はお兄ちゃんの言うことを聞かなかったことを一生悔やむんだよね?」と・・・・・。

「もし、あのとき、告知していたら・・・」
今、振り返ると、あのとき、告知していなくて良かったんじゃないかなぁと思う。ハッキリとした答えは出ていないけど、多分間違っていなかったと思う。そして、告知しなかったことを、今、後悔はしていない。当然、妹のことを恨んでもいない。
そして、多分妹も、僕の言う事を聞かなかったことに対して、後悔はしていないと思う。まだ本人には聞いていないけれど・・・。

母が穏やかに最後を過ごすことができたのは、告知しなかったからなんだろうな、と思う。母のことを一番理解していたのは妹だったんだ。やっぱり、妹にはかなわない。

そんな妹とは、今までの中で、今が一番の仲良しだ。兄弟としての付き合ってきた23年間の中で一番。それはきっと、小さい頃からケンカばかりしてきた僕ら兄弟に手を焼きつづけた母からの最後のプレゼントだったのかもしれない。