「母と共に」

ちなさん
[コルドンブルーの部屋]
【入 院】 

[8月9日] 母が、会社からしんどいからと帰ってきたので、家にいた姉から私に連絡をしてきました。病院に連れて行ってといわれ、心配だったので、私も会社を早退して家に帰りました。その頃、6ヶ月前に結婚していたので、一緒に暮らしていなくて、状況がぜんぜんつかめなかった自分がほんと情けなかったです。
そして、病院が嫌いな母は、病院に行かないって言い張って、結局夕方まで、ままならない時間が過ぎ、母が前にお世話になってた病院が夕方から診察が開始するので、そこに行くことにして連れて行ったんですが、もう自分でも歩けないぐらい体がだるくって、病院に着くなり長いすに横たわり、苦しんでいました。ほんとにどうしたらいいのかわからない私は、ひとり戸惑っていました。
それから、診察が終わり、このままでは、危ないといわれ至急検査が必要だいうことで、市内の大きい病院を紹介してもらいそのままその病院に連れて行き、その日は22:00ごろまで病院で検査の結果を待った後で、検査入院をすることになり、母は入院し、私は家路に帰りました。
明日からどうなるんだろうかと思いその日を暮らしました。

1週間の検査の結果がでて、8月の下旬に主治医からのお話があり、肝臓にぽつぽつと塊があるということで、それが温寒をよぶそうです。それと肝臓の中心部上方の胆管に塊があってこれが、もしかすると癌かも知れないとのことでした。まだ良性か悪性か解りませんとの答えが返ってきました。実は、そのときは私1人でその話を聞いたのでショックのあまり涙も出ませんでした。あとでもう一度姉に報告するときに涙が止まらなくって母に悟られてはいけないと我慢しました。二人でそのあと母抜きで、もう一度詳しくこれからのことについて聞き、血管造影検査をすることになり、それをするとより解るということでした。そして、このあとからが私たちの戦いが始まったわけです。

【告知・退院後】

検査の結果は、やっぱり癌だったんです。姉は、もう手遅れだということをうすうすわかっていました。あともって、年内ですといわれました。(2,3ヶ月もてばいいほうですと。)他にできることは、もっと大きい大学病院にいって、手術を受けることでした。でも、メスを入れるのを嫌がるだろうし、手術しても助かるかどうか解らないのにどうしたらいいのか??結局このまま本人に説明をしてどうしていくか話し合うことになりました。

そして、告知をする日が来ました。大きい病院は、やはり遠くなるし、いろいろと大変だということもあり、それにやっぱり手術しても治るかわからないことを告げました。母を見てるのはつらかったけども、覚悟を決めたようで家で療養をすることにしました。母はほんと強い人だと思った。強くなんかはないのだけども1人このままその日は、病院でどう過ごすのだろうかと考えると怖かったです。本人のことは本人にしかわからないんだから、何をいっても、もう励ましにはならないんですよね。自分が死んでいくのにどうしたらいいのか後は生きていく時間がどのくらい長くなるかです。後の余命はそのときは告げませんでした。このまま癌が消えてくれることだけを望みにこれからがんばるだけです。

【年 始】

下旬頃になると鼻血が止まらないのがひどくなり、口から血を吐くことがよくあった。どんどん体調がくずれはじめた。これから先が大変なんだと思った。なにも食べれない状態が続く。病院では、入院しますかと聞かれることが多くなったけども、本人は最後まで家にいたいといってたから本人が我慢できるところまで家でいることにした。黄疸で、体がかゆくなり頭皮をかきすぎてここでも血が止まらなくなっていた。だんだん笑わなくなったし、しゃべるのもいやだという感じになった。

1月28日] とうとう再入院することになった。通院がしんどくなったようです。歩くのもおぼつかない状態だったから、もうそろそろ通院に車椅子とかがいるかなと思ってた矢先の再入院でした。
これからが、がんばり時だと思った。諦めずにがんばっていこうって心に決めていた。

とうとう母のお母さんにに言うときがきました。今までずっと黙っていましたが、癌だとは言わずに入院したことだけを告げることにしました。親戚がみんな集まってきていた。このころになるともう本人は、寝てるかTVをちょっと見てるぐらいで、誰ともしゃべらなくなった。トイレがちょっと行くのがしんどそうだったけども、病室でするのはやっぱりいやだと言っていた。
ほんとにどこまで我慢強い人なんだろうと思いました。

【天国へ】

[2月5日] 主治医との話し合いがあり、もう長くないときかされた。会わせる人がいたら呼んでおいてくださいといわれる。毎日なにもしてあげれずに日々ただ回りの世話をしているだけであった。仕事が終わり夕方から病院に行くと今日も生きていてくれてるって思う自分がいました。

[2月8日] 食べてもすぐに出すようになり、酸素も今日からつけることになった。病室も看護婦さんの近くに移りもう本人ももうろうとしていた。自分の言ってることが分からなくなっていた。母がいってることが解らなくって、私までが辛くなってきていた。

[2月9日] 夕方から看病に言ったけども車椅子でトイレに連れて行くこととなっていて、トイレで母をこかせてしまい、起き上がらせることができずに、ほんとパニックにおちいりました。自分がなんて情けない人間なんだろうかとうちひしがれてしまいました。すぐにDr.を呼んで助けてもらいました。あとで、車椅子に乗せ方とか看護婦さんに聞きました。ほんと情けないことです。

[2月10日] 今日も夕方から姉と交代しに行ったら、母が個室に移されていた。もうトイレも自分でいけずに、オムツになっていました。その日の朝姉が病院に来たら、一人で血を吐いて寝ていたそうです。看護婦さんも同じ病室の人も気づかずにいたそうです。少しそれを聞いてショックでした。もっとはやく個室に入れてもらうべきだったかもしれません。

今日から夜の看病が必要となり泊りがけになると聞かされて、準備におわれていました。姉がまず家に帰るからと私は母についていました。もう全然話すこともなく、もうろうとして寝ているだけでした。そして、氷をなめさせてあげたり、顔を拭いたりとしていたら、1時間ぐらいたって突然また黒い血を吐いたので、すぐに看護婦さんと主治医を呼んだら、「ご家族を呼んでください」と言われ、あわただしく電話をしていました。その間に母はひとり亡くなっていました。

電話から帰ってきたらもう「ご臨終です」と言われました。何がおきたのかわからず、ぼーっとしていました。あの時電話なんかしに行かなければといまでもすごく悔やんでいます。そのあとはひとりでただ病室を片付けていました。
これが最後の死に際なんだなと思った。誰一人そばに入れずに死んでいくなんてなんてさびしいんだろうかと思いました。


もうろうとしながら最後に聞いた言葉があります。
「今日はお寒い中お越しくださいましてありがとうございます」
と何かを思い出していった言葉でしたが、
これが最後に私が聞いた母の言葉でした。

【そして今】

これから、どうしても母がいないことに慣れないといけないんだと思います。もうすぐ1年になろうとしています。(現在平成12年12月)

自分でもまだまだ悔やむ日々が続きますが、こういうことは誰しもあることです。読んでくださった方々も親孝行してあげてください。自分自身も健康でいてください。お金が一番かもしれませんが、やっぱり健康じゃないと何もできません。くいのない人生を過ごしていきましょう。
まだまだ後悔の念は取れませんが、私もがんばってこれからの人生を歩んでいきます。